森元斎『ただ生きるアナキズム』青弓社
抵抗とは生である――音楽や映画、文学、思想を軽やかに跳躍して挑発的な語り口で国家や資本主義と対峙する戦略を提示し、不断の努力と相互扶助で日々の営みを支え、小さなさざ波から大きな潮目を変えていくための日常にあるアナキズムの可能性を活写する。
- 0 序に代えて
- 音楽篇
1 東京の西から――フィッシュマンズについて
2 ルー・リードとニューヨーク
3 特異性の論争(ルビ:コントロヴァーシー)――プリンス、その経験の雫
4 キング・クリムゾンの残響――一九六九年の精神史
5 「少しづつ身体は死んでく」――ceroにまつわる思い出話
6 土と音楽 - 映画篇
7 after the requiem――ジャン=リュック・ゴダールの脱構成
8 王をたたえない――『バーフバリ』について
9 映画のなかのアナキズム――『金子文子と朴烈』(監督:イ・ジュンイク、二〇一七年)論
10 俺たちは共産主義者だ――『ギミー・デンジャー』
11 「力」のための覚醒剤――スパイク・リーのために
12 チョッケツ、アジア――空族『バンコクナイツ』
13 狼の夢/夢の狼――『狼を探して』(監督:キム・ミレ、二〇二〇年) - 文学篇
14 森崎民俗学序説――森崎和江における「水のゾミア」の思想
15 瀬戸内寂聴のアナキズム
16 悶え加勢すること――石牟礼道子について
17 鉱物的な眼――谷川雁
18 地を這う精神――『はだしのゲン』
19 月と靄――稲垣足穂におけるリーマンと相対性理論、タルホ・コスモロジー - アナキズム思想篇
20 石川三四郎における地球の思考――ヨーロッパ滞在から土民生活へ
21 ダンスができない革命なんていらない――ルクリュからグレーバーまで
22 アナキズムの自然と自由――ブクチンとホワイトヘッド
23 抵抗とは生である - 24 ロジャヴァ革命について
- あとがき
西加奈子, 村田沙耶香, 金原ひとみ他『私の身体を生きる』文藝春秋

17人の書き手が自らの「身体」と向き合って記す、生きるためのリレーエッセイ
私の身体はほんとうに私のもの? 私の身体はどんな視線にさらされ、どのように規定され、内面化されているのか。17人の人気小説家・美術作家・コラムニスト・漫画家・発明家が自らの「身体」と向き合い、ときにユーモラスに、ときに激しく、そしてかつてない真摯さで文章をつむぐ。「文學界」人気連載がついに単行本化。
著者は島本理生、村田沙耶香、藤野可織、西加奈子、鈴木涼美、金原ひとみ、千早茜、朝吹真理子、エリイ、能町みね子、李琴峰、山下紘加、鳥飼茜、柴崎友香、宇佐見りん、藤原麻里菜、児玉雨子の17人。
自分と自分の身体の関係を見つめる言葉が、これまで読んだことのない衝撃と共感をもたらす。
- 島本理生「Better late than never」
- 村田沙耶香「肉体が観た奇跡」
- 藤野可織「「妊娠」と過ごしてきた」
- 西加奈子「身体に関する宣言」
- 鈴木涼美「汚してみたくて仕方なかった」
- 金原ひとみ「胸を突き刺すピンクのクローン」
- 千早茜「私は小さくない」
- 朝吹真理子「てんでばらばら」
- エリイ「両乳房を露出したまま過ごす」
- 能町みね子「敵としての身体」
- 李琴峰「愛おしき痛み」
- 山下紘加「肉体の尊厳」
- 鳥飼茜「ゲームプレーヤー、かく語りき」
- 柴崎友香「私と私の身体のだいたい五十年」
- 宇佐見りん「トイレとハムレット」
- 藤原麻里菜「捨てる部分がない」
- 児玉雨子「私の三分の一なる軛(くびき)」
内田樹『勇気論』光文社
いまの日本人に一番足りないものは何だろうか?
本書では、“モヤモヤを抱えた編集者との往復書簡”によって、内田樹が「勇気」の意味を考察します。
ジョブズ、フロイト、孔子、伊丹万作、河竹黙阿弥、大瀧詠一、パルメニデス、富永仲基……思いがけない方向に転がり続けた二人のやりとりは、結論にたどり着くことができるのか。
読み終わる頃には、あなたの心はフッと軽くなってるに違いありません。
coming soon…
河野真太郎, 西口想『不完全な社会をめぐる映画対話―映画について語り始めるために』堀之内出版
こんな映画本を待っていた!
「陰謀論」、「ハラスメント」、「ケア」、「ミソジニー」、「障害」etc…テーマに沿って、現代映画を社会的な視点で語るスリリングな対談。
「好きだった監督がハラスメントで告発されたとき、作品にどう向き合えばよいのか?」「一昔前の作品を見るとジェンダー観に違和感を覚えて楽しめない」等、近年多くの人が直面した問題に寄り添いながら、映画と社会の関係を深く見通す。誰もが感想をSNSで発信し、映画を見ることがコミュニケーションに組み込まれつつある現代で、映画と社会はどのような関係にあるのだろうか?映画を「観る」だけでなく、「語る」ことの比重が増す社会における、新たな地平を描く。
“映画の生は、スクリーンの上だけにあるのではなく、拡散していくコミュニケーションの中にあるのだ。”
──あとがきより
●取り上げる作品
『君たちはどう生きるか』『セッション』『天気の子』『ジョーカー』『パラサイト』『ドライブ・マイ・カー』『プラダを着た悪魔』『万引き家族』『マリッジ・ストーリー』『ドント・ルック・アップ』『バーニング』『カモン・カモン』『エイブのキッチンストーリー』『ファントム・スレッド』『アイ・アム・サム』『クレイマー、クレイマー』『シェフ』『SWEET SIXTEEN』『ノマドランド』『コーダ あいのうた』『ケイコ 耳を澄ませて』『クルエラ』『メイド・イン・バングラデシュ』『オートクチュール』『ミセス・ハリス、パリへ行く』『幸せのレシピ』『二ツ星の料理人』『ミッドナイトスワン』『スキャンダル』『スタンドアップ』『サンドラの小さな家』 etc…
●取り上げるキーワード
ハラスメント、陰謀論、ケア、男性性、ミソジニー、ネオリベ、#Metoo、トランスジェンダー、マルチバース、障害 etc…
- まえがき──映画と社会についての短い個人史 西口想
- 【対話1】ハラスメントがある世界で、いかに作品と向き合うか
- もはやハラスメントの教科書?──『セッション』
- 「ハラスメントを気にしていたらいい作品は生まれない」というメッセージ
- いま見ると気になる描写も多いフェミニズム映画──二〇〇〇年代の代表作『スタンドアップ』
- 社会進出は進んだけれど……──女性たちのリアル
- 監督のハラスメントをどう考えるか?
- 被害者と加害者の訴えは「五分五分」ではない
- 批判がないと、作品が死ぬ──過去の作品をどう評価するか?
- トランスジェンダー表象の変遷と発展──『トランスジェンダーとハリウッド』
- かつて批判されたパターンを踏襲する日本のトランス表象──『ミッドナイトスワン』
- 「クリーン」な現場で生まれる作品はつまらない?
- コラム ミーガン・トゥーイーの悪夢 西口想
- 【対話2】「シャカイ」を描くセカイ系──新海誠作品を読み解く
- 新海作品で描かれる感性的なもの
- キャラクターの背景を描かない
- 「大丈夫」というメッセージの変質
- バニラトラックを描くことが、社会を描くことなのか
- 村上春樹の男性性と帆高
- ミソジニーを脱却できない「男の成長物語」
- コラム セカイとシャカイのあいだで──新海誠と宮﨑駿 河野真太郎
- 【対話3】社会を描くとはどういうことか──ケン・ローチ作品
- 希望のないラストの衝撃
- ラストに至るまでの「希望」
- 家族しかいないことの絶望
- ケン・ローチが描いてきた家族
- 時事性に回収されない、ケン・ローチの作家性
- 個人の成功をあえて描かない
- 「ケアラーなのに悪態をついてごめんなさい」
- ケン・ローチが描く女性と男性
- ケン・ローチと是枝裕和──作品の違い、社会の違い
- 映画が社会的であるということはどういうことか
- 個人を描くことから始める
- 【対話4】陰謀論は、お好きですか?
- 『ドント・ルック・アップ』と陰謀論
- 陰謀論はどう変化してきたか?
- 陰謀論とキリスト教の切っても切れない関係
- ネオリベラリズムと大富豪──ハデンとイッシャーウェル
- ヒロイン像の変化──ミソジニー描写を通じて
- 一九九〇年代を代表する陰謀論映画──『ファイト・クラブ』『マトリックス』『アメリカン・サイコ』
- マルチバースと陰謀論──『マトリックス』とマーベル作品
- 陰謀論にどう立ち向かうか──『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
- 家族主義的な「愛」に対する違和感
- さまざまな映画オマージュが持つ意味
- ありえた可能性のなかで最低の人生
- 映画は常に陰謀論と隣り合う
- 【対話5】それは誰のための映画か──障害と物語
- 障害を扱った感動作──『コーダ あいのうた』
- 感動のために障害者を搾取していないかを考える
- 『コーダ』は誰のための映画か?
- 健常者向け/障害者向けという線引きの先に
- コミュニティからの離脱をどう描くか──『リトル・ダンサー』と『コーダ』
- 新自由主義下の障害者政策
- 社会がつくりだす障害
- 一般化できない経験にどう向き合うか
- 「私の物語は私のもので、コーダにしかわからない」
- 「ろう者として生まれたかった」は何を意味するのか
- ケアラーをケアするのは誰か
- コラム 『ケイコ 目を澄ませて』と障害者のワークフェア 河野真太郎
- 【対話6】「当事者」が演じることについて──移民・難民と映画
- 日本で生活する移民たち──『マイスモールランド』
- 世代間トラウマを乗り越える──『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』再び
- 繰り返し主題になってきた世代間トラウマ
- 当事者性と創作の関係
- 悪意なき差別を丁寧に描く
- 「見えていない」が、確かに存在する移民社会
- 社会派映画はなぜ失敗するのか──手法の難しさ
- 当事者が表に立つ重要性と危険性
- 「当事者」とは誰なのか
- 鍵となる概念──インターセクショナリティ
- コラム 現在地としての『ファミリア』 西口想
- 【対話7】ケアと男性性──苦悩する男たち
- ケアと男性性──『ドライブ・マイ・カー』
- 人間の多重性・矛盾を受け入れること
- ホモソーシャリティを切り崩す多声性
- 暴力性が外部化された人物造形
- イクメンになる男、最初からイクメンの男──『クレイマー、クレイマー』『マリッジ・ストーリー』
- 障害と男性性──『アイ・アム・サム』の障害表象
- 養育権をめぐる法廷闘争──『マリッジ・ストーリー』
- 解決されない暴力性
- コラム 『カモン カモン』とイクメン物語のゆくえ 河野真太郎
- 【対話8】映画のなかのミソジニー──能力と傷をめぐって
- ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニー──#MeToo以降のヒット作を読み解くキーワード
- 失われた地位を「取り戻す」物語
- 『ジョーカー』のポピュリズムをどう捉えるか?
- 原作にはなかった階級性、地域性を織り込む映画たち
- 「格差」に比べて、あまり意識されない「階級」
- 弱者男性にとっての父親──『ジョーカー』『バーニング』
- いまさら父を越えている場合じゃない──『パラサイト』の親子関係
- メリトクラシー社会が崩壊した先の女性たち
- 【対話9】ファッションを通じて何を描く?
- 映画に衣装は欠かせない
- 「お針子」映画とブランド創業者の映画
- ポストフェミニズム映画の重要作品──『プラダを着た悪魔』
- 『プラダを着た悪魔』を上書きする『クルエラ』
- 女性ヴィランの暴力をどう描くか?
- 仲良く過ごすために毒を盛る?──『ファントム・スレッド』
- ファスト・ファッションの時代に映画は何を描くか?
- コラム 「透明人間」の夢 西口想
- 【対話10】おいしい映画──ジェンダー・料理・労働
- さまざまな文脈が託される「料理」のシーン
- 2つの類型──「シェフ」の物語と「料理研究家」の物語
- 料理の過程を見せる作品/出来上がった皿を見せる作品
- 料理の描写と性描写の重なり
- 料理とジェンダー──求められる男性像の変化
- 不完全な人間でよい、という提案
- 主婦とバリキャリ女性の対比
- 半径五メートルの世界を快適に整える現代性
- レシピを介して、目の前にいない誰かとつながってゆく
- レシピと「コモン・カルチャー」
- 【対話11】 住むこと、住まいを失うこと
- ケン・ローチのエッセンスを継ぐ作品──『サンドラの小さな家』
- 生活の基盤としての「家」を問う
- 偶然でしかつながれない?──階級コミュニティなき時代のコミュニティ
- ケン・ローチが描く「家」の意味──『SWEETSIXTEEN』
- 金融危機で消失した家とコミュニティ──『ノマドランド』
- 公共・福祉の稀薄さから見えるアメリカ社会
- 家の獲得に紐づいた男性像と、女性のセキュリティ
- 人間にとって「家」とは何か、「老い」とは何か──『ミナリ』『ファーザー』
- 「働き続ける主体」という幻想
- コミュニケーションとしての映画──あとがきにかえて 河野真太郎
クリステン・R・ゴドシー『エブリデイ・ユートピア』河出書房新社
トマ・ピケティ絶賛! ユートピアは夢物語ではない。プラトンから現代まで、多様な共同体の豊富な実例を参照しながらより幸福な暮らしのあり方を考える、閉塞感に満ちた時代の希望の一冊。
coming soon…
藤高和輝『ノット・ライク・ディス―トランスジェンダーと身体の哲学』以文社
身体とは何か。ほかならぬ、誰もが生きているこの「私の身体」とは何か。本書は、トランスジェンダーの身体経験の分析を通し、そのトランスの身体を(シスジェンダーに対して)「特殊な」身体、「特殊な」経験とみなすのでなく、かつ、そのトランスジェンダーに対する既存の病理学的な認識図式を批判し、「トランスにとっての身体とは何か」のみならず、誰もが生きているこの「私の身体」とは何かを問いかける。
病理学的図式、デカルト的図式、構築主義的図式という「心身二元論」から発する「神話」を解体し、そのアポリアを問うとともに、オルタナティヴな理論的枠組みの提示を試みる。
「真理はあなたのなかに存在する。私たちは自分を曲げなくていい」
- 序 章 マトリックスの夢、あるいは真理の場所
- 第一章 感じられた身体―― トランスジェンダーと『知覚の現象学』
- 第二章 身体を書き直す―― トランスジェンダー理論としての『ジェンダー・トラブル』
- 第三章 たったひとつの、私のものではない、私の身体
- 第四章 パスの現象学 ―― トランスジェンダーとサルトルの眼差し
- 第五章 ポストフェミニズムとしてのトランス?―― 千田有紀「「女」の境界線を引きなおす」を読み解く
- 第六章 語りを掘り起こす――トランスの物質性とその抹消に抗する語り
- 第七章 トランス・アイデンティティーズ、あるいは「名のなかにあるもの」について
- 終 章 「私は自分の身体を愛することができるか」
- あとがき
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